昭和48年12月21日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
神様が見ておってござる。見ておって下さるんだと。神様が知っておいでだと言う神様をわかる。それを信ずるとき、全然問題ではないことである。本当に神様が神が見ておるとこうおっしゃる。神様が本当に見ておって下さることあれは今、あんな恥ずかし目を受けておるとか、あれがあんなにいじめられておるとか、あれが泥棒だと言われておる、乞食だと言われておる。
いや泥棒もしとらんのに、いや乞食もしとらんのに乞食だと言われているんだ泥棒と言われておるんだと言う事を、神様は見ておいでだという事をね、信じれたらもう、問題はないでしょうが。それを信じていないから、問題になるのです。私がいつ泥棒したかと言う事になる だから神様が見てござると言う事を真実、私は分らせてもらう、そういう神様を頂くと言う事がです、しっかり信心の帯をせよと仰る。しっかり信心の帯をしとかんと、その神様を頂けんのです。
そういう神様を頂いた時に、いわゆるその五十七節にあるように、神を杖につけば楽じゃと、そういう神様でなからなければね泥棒だから、乞食だからと言われたから腹を立てるような信心、それではね、神を杖につく事も出来んのです。神を杖についとるとは言えない。神を杖につけば楽じゃと、こう仰る。そこからです、楽なおかげが受けられるのです。そこから信心の帯と言う事がしっかり信心の帯という事が段々わかってくるわけです。自分というものをわかる。
例えばそういう乞食だとか泥棒だとか、まあいうなら悪口を言われたり、まあいうならその難儀な場合、ときに自分というものを見詰める事によって自分が分る。成程こういう悪口でも言われるはずだと、又はこういう難儀に遭うはずだと。信心の帯をすると言う事は、そう言う事ではないでしょうか。難儀に直面した時にそれを認めるというか、難儀を受けなければならない自分のその実際の姿というものを分ると言う事。
私は御神徳を頂くと言う事について、これはもう二十数年前、福岡の教会に毎日日参さしてもらう時に、神様からいろいろとお知らせを頂くようになった。本当に四神様の前に出ると四神様が話かけて下さる。教祖さまが、お伺いすれば、教祖様が教えてくださる。それがね、私は思うのですが、ああ教祖さまだな、四神様だなとわかるんです。自分の心ね、ああこれは久留米の石橋先生だな、これは福岡の吉木先生だな、これは桂先生だなとわかるんですよ。
そういう時代があったんです。そしたらいろいろとお知らせを頂いて、まあ、お知らせを頂いたそういうようなことが、まあお徳のように思うとった時代なんです。まあ霊徳ではありましょうね。御神徳じゃなくて、霊徳ではありましょうけれどもその時に天地の親神様が教えて下さる時は又別です。私共の先達、先輩であるところの先生方の信心をこう頂いておったし、又先生方が受け持ち、受け持ちですね。
例えば国語を受け持ってある先生、算数を受けもってある先生があるように、先生方の得意な信心を、教えて下さったという感じがするのですよね。そういう時分ですから、本当にまあ思い上がりというですかね、それはもう【 】打枯らした状態です実際は。けどそういう、例えばおかげを頂いておるですからもう、何かしらもうぼうけてしまう位に有難いのです。
道を歩きよっても神様が話かけて下さるしね、そしてそれがおかげに繋がっとるわけじゃないけれども、いろいろそれに受け返事、受け答えして下さったりするのですから、有頂天のような時代です。神様が本当にお前のような幸せな者はおらんぞと、四神と言えば、四神様が出てくるし、桂と言えば初代の桂が出て、教導をするし、お前のような幸せ者はおらんぞと話かけられるんです。それで本当に私のような信心も出来ん者がね、このようなお徳を頂いて勿体ないというておられる。
お前がその徳を自分で受けておると思うかと、本当受けておる証拠にはこうして神様とお話が出来ると言う事は、受けておる証拠だと思ったから、そんな意味の事を申し上げたら、お前のは借り物じゃと仰った。本当にがっかり致しましたですね。お前のは頂いとるのじゃない借り物じゃと。神が貸してあるのだと。そりゃそうじゃろう信心も本当のよい信心も出来んのにこう言う事に、確かにそうであろうと私も自分でそう思うた。思うたらね一生借り続ければ、その方のもんじゃと。
今朝そういう意味の事を頂くんですよね。何故そうなのかと言う事を、もう大きなね、私の母の郷里に麦生の近くに【】杉があります。もうそれこそ十人位で取り囲まんならん位の大変な杉です。中は畳が敷かれる位にうつろになってます。中が腐ってほげてるのです。それに注連縄が張ってある。そういうのを頂いてです。人が注連縄を張りかけているところを頂くんです。
例えて申しますと、例えば乞食じゃ泥棒じゃと言われる。俺が何時泥棒したかと言わずに自分自身を本当に自分を見極めて見るとです、言われねばならぬことがいわゆる自分の心のです、愚かさというか腐っておる状態というか、汚いというか、それこそしんが腐って形はこんなに立派にしておっても、しんが腐っているような自分に気が付くわけです。そこにね、私はお徳というより、だから力と思うですね。力を頂いて行くという事です。徳じゃない。信ずる力が段々強くなって行く。
だからおかげというものはね、おかげというものは頂き続けなければ力じゃない。例えば一生頂き終わった時にまでおかげを頂き続けれるそれが、頂き続けた時にそのまが、百頂けておった人、千も万も頂けておった人は、千も万もの御神徳と言う事になるのです。だからまだ私共生きておる間は、それは自分のものじゃないのです。お徳というのはそういう力に潤うた人達が後者注連縄を張ってくれるわけです。中は腐っておってもその時が初めて神格というよりも御神徳ですね、御神徳を私は受けた時だと思う。
神格というのは、神様のおかげを百も頂き続けられる、千も頂き続けられる、万を頂き続けれる。これが神格です。だから例え神格を頂いとっても、なら途中でおかげを落としたら、元の木阿弥ですよ。教祖様はそこのところも、おっしゃっておられますね。此方のことを生神と、皆が言うけれども、何の私が生神であろうぞと。私は只肥え汲みの百姓だと、土地を泥をつかんでいる百姓じゃと。これが教祖様の御一生の、自分自身を見極めた姿であった。
人から生神様と、そしておかくれになられた時にです、いわゆる生神という御神格をです頂き続けられたところに、生神としての御神徳をいわば受けられたと言う事になるのじゃないでしょうか。厳密に言うと、もっと厳密に言うと、私がその当時頂いとったことは、教祖生神金光大神が最後に百日修行をなさって、それから御広前をお退けになられてから、いわゆる十月十日に神上がりになられた。その時に生神金光大神の御修行全部仕終えられたと言う事ではない。
その後のまだ荒々しい、それこそ人の真似の出来んような修行を、四神様が又受けたまわられた。もうこれ以上の信行はなかろうと、思われる程しの心行を、三代生神金光大神様がなさった。それで完璧という意味の事を頂いたんです。教祖、二代金光様、三代金光様のその御信心がです、いうならば百年に亘っての信心金光大神の信心修行がです、いわゆる生神金光大神としての、御神格がいうなら、完璧なものになって、これはだから私だけしか言えない。
私が頂いとるから言える事であって、なら金光大神に書いてある事でもなければ、金光大神覚えに書いてある事ではないです。けど生神金光大神というのは、その様にもう念には念を入れられた御修行が内容としてある訳です。そこに人の真似の出来ん様な、四神様が御修行の御苦労を下さり、それこそもう是が人間業で出来るであろうかと言われる七十年間もの間の、いうなら心行を続けて下さった三代金光様の御信心の、御神徳を三つ合わせてです、いわゆる生神金光大神の御神徳と言う様な事を頂いた事がある。
私共がです、なら現在皆さんが、自分が百なら百のところを頂いとるなと思う人があるでしょう。おかげを頂いて、千円なら千円という金にはいつも、その日暮らしをしておっても、神様が繰り合わせてくださると、いうなら千円の徳を受けておるから、それが次の、一万円の徳になるような、信心修行をさしてもらうその過程に於いてです、乞食じゃと言われ、泥棒じゃと言われ、これはどう言う事かと言うと。
いうならば悪口もやはりそうです、どういう難儀がそれこそ天から降ってくるか、地から湧いてくるようにして、起きてくるような事があっても腹を立てなとか、又はそれをしっかり信心の帯をして受けて行けと言う事ですね。そういういうならば、事柄とか様々ないうならこの通りに人から悪口を言われると言う様な事があるかもわかりませんけども、それ度に神様を信ずる力が生まれてくる。力が頂けてくる時にです、例え悪口を言われても、腹が立たんようになってくる。
ああ私も二、三日前、腹を立てるわけじゃない、まあどうして幼稚な考えだろうかという事に直面した。幼稚というのもおかしいですけども、それは大変立派な事ですけれども、私から見ると大変幼稚に見えた。もしそれが私がです、幼稚に見えてなかったら、私はその場で腹を立てたでしょうね。けれども何か子供達が集まってそれをしているような感じにしか見えなかった。人からはもう親先生、大先生と言われる様な人達の事なんですよ、これはが私にはね、もうまるきり小さい子供のように見えたんです。
ですから本当に無邪気な者じゃなあと思うた。問題が信心の帯をして行く事によって自分の心が豊かに大きく育って行く。信心の心が成長して行く。いつかこの信心の帯という事に就いて例えば馬鹿と言われて、乞食と言われて、それがね腹が立つ時はね、信心の腹が小そうなっとる時、信心はしよるけど、がばがばしとる、だから、もちっと自分が太ったら、この帯がきちっとなってくる。信心の帯を締めたんではね、締めたんではいかんです。こもうなるかえって、そうでしょう。
だから腹が立つと言う事はです、これは腹が小さい証拠ですから、こちらが黙って受けられる心に太るとです、この帯がぴしゃっと締まってくる。そういう都度、都度に、だから太って行かにゃいけん。太って行くから帯がしっかりとしてくるわけです。今日皆さんに同時にわかって頂きたいことは、さっきからちらっと申しましたように、お徳を頂いて行く事ではなくて、おかげを受け続けて行くと言う事です。
そのおかげを頂き続けて行くと言う事がです、やはり力になる。頂いたり頂かなかったりというのじゃいけん。頂き続けなければいけん。そこに例えばおかげが切れるとしますか、そこに私共が反省させてもろうて、ああこれは自分の信心はおかしいぞというて、そこのところを補うて行くという信心をさせてもらわにゃいかん。そういうおかげを私共が一生頂き続けて行くようなおかげを頂かねばなりません。
そん時にです、初めてその方のものだと言う事になる、だから油断は出来んと、教祖様もおっしゃっている。此方とていつ神様からおひまが出るやら分らんという程しのものである。人から生神様と言われるようなお徳に進んでおられても、神様から間違うたら間違うたらいつ神様からお暇が出るやら分らんとこう言う。間違うたらこれは又実際に自分が反省さして頂いたら、実際は間違いだらけであると言う事。
中が空洞で虚だと言う事、それでもそれに気付かせて頂いて、御詫びをして行くと言う様な信心、それをそこに詰めて行くと言った様な信心、いわゆる信心の帯をせよとはそう言う事、信心の帯をし続けさせてもらう時に、初めて御神徳を受けた人、受け無かった人、信心が中途半端になった人のことがはっきり分る訳です。注連縄というものは神様が張られるものではなくて、人が張るもんだと言う事。
その時に初めてそれは神木という、神の木、神の心と言う事になる。まあいうならば、大変難しい所に御理解を頂きましたが、信心の帯をせよとずんだれておる時には、それは締めなおすと言う事もありますけれども、私は締めなおすというのは、もうその場きりのものだと思う。だからそういう時に自分というものをいよいよ分らせてもろうて、それをそれにぴっとよい様に、いうならばお腹が大きゅうなる。
腹が大きゅうなるおかげを頂いて行くと言う事が、力を受けて行くと言う事と思います。そういう力がつけばつくほど、だからおかげの世界も百円の世界から千円の世界というふうに大きくなっていくでしょう。それが一生しかもそういう頂き続けて行けれるということは、もういつもいうなら大きゅうなるチャンスというかものを神様は与えて下さる。それを大きゅうならんで。
只歯を食いしばって、只、辛抱しとるのではなくて、豊かにいうならば相手が大人、こっちも大人、だから心はまあいっちょ大きゅうならにゃいかん。なら子供同志だから腹が立つ、こちらが大人になれば、子供の言うておる、しておることは可愛らしい位のもの。ああ、無邪気なもんだと言うて微笑ましい位のもの、そういう頂き方が私は、本当の意味に於いての信心の帯をすることじゃないかと思うですね。
どうぞ。